遅咲きだった「陰陽の達者」安倍晴明
紫式部と藤原道長をめぐる人々⑨
■遅咲きながら長きにわたって活躍した晴明
安倍晴明の出自には分からないことも多く、諸説ある。一説には讃岐国(現在の香川県)生まれ。一般的には大膳大夫安倍益材(だいぜんだいぶあべのますき)の子で、系図によれば生年は921(延喜21)年となっている。
晴明は賀茂忠行(かものただゆき)・賀茂保憲(かものやすのり)父子を天文道、陰陽道の師と仰ぎ、早くから天皇や貴族に占いで従事していたようだ。
晴明の足跡が史料上で初めて明らかとなるのは、960(天徳4)年のことで、天文得業生(てんもんとくごうしょう)として晴明の名が出てくるらしい。天文得業生とは、陰陽寮で天文学を学ぶ学生のこと。この時、すでに晴明は40歳だった。
天文得業生は学生のなかでも特に優秀だった者を指すというから、晴明の類まれな才能はすでに貴族社会で広く認知されていたようだ。記述のある960(天徳4)年の翌年、晴明は内裏焼亡で焼損した霊剣再鋳造の功績が認められ、正式な術者・陰陽師に任じられた。遅咲きではあるが、すでに数々の実績があったことからの昇進とも考えられる。
971(天禄2)年には天文博士。その後も主計権助や穀倉院別当など、陰陽寮以外の官職も歴任した。任命には、陰陽師としての高い評価が背景にあったようだ。1001(長保3)年には従四位下に叙されている。
朱雀(すざく)天皇からはじまり、村上、冷泉(れいぜい)、円融(えんゆう)、花山、そして一条天皇と6代の天皇に仕えた。1005(寛弘2)年9月26日に死去。85歳だった。
住まいが平安京大内裏の土御門にあったことから、晴明の子孫は土御門家と称され、賀茂家と並ぶ陰陽師の大家となった。
現代では小説や映画といった創作の世界で「安倍晴明」の名が広く聞かれるようになったが、その多くは神秘的な説話をもとにしたものだ。
いわく、天変の異常から花山天皇の退位を予知したり(『大鏡』)、式神(識神とも)を駆使して術師と術比べをして勝利したり(『今昔物語集』)、藤原道長を呪詛(じゅそ)しようとしていた者を見つけ出したり(『宇治拾遺物語』)といった内容で、いずれも摩訶不思議な術を使う術師とのイメージが強い。
鎌倉時代以降、陰陽道は天皇や貴族だけでなく庶民にも徐々に知られるようになり、やがて人々の暮らしに身近な存在となっていった。陰陽寮は1869(明治2)年まで国家機関として存在していたが、1870(明治3)年に明治新政府により陰陽道が禁止されたことで解体された。
なお、陰陽師の家系は令和となった現代にも続いている。継承する子孫が年々減り続け、途絶の危機に見舞われる家系がある一方で、陰陽道の影響を受けた民間信仰が息づく地域もあるという。
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